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神領湖

​1.神領の古代湖伝説

​歴史と地名の探求

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神山町は鮎喰川の上流に位置し、大粟山に大粟神社が古来より祀られてまいりました。

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神領は盆地状の地形で、古代の神領地区は湖だったと伝えられています。

上角と青井夫の峠は、水泡が打ち寄せるので「あわのたわ」と呼ばれ、慶長時代から現在も「アギノタヲ」とされています。

​神領村史(昭和35年版)には、弘法大師が牛犂を用いて山を掘り割り、広い耕地を作り出したとの物語が記されていて、この作業で作られた牛犂の跡があり放り投げた石が太鼓石とされています。

​「神山地名をさぐる」(昭和62年版)では、湖があった時代には人々は船で往来し、西上角に住む船頭たちが多かったこと、そして湖がなくなった後も地域の呼称として「せんど」とゆう名が残っており、幼い頃に聞いた話によると、その名は神宮寺の前にあった大木に舟を繋いでいたことに由来し、明治時代に町筋が形成された際に「船頭町」と呼ばれるようになったとのことです

​神宮寺の門前が海抜175mでその大粟山の麓に位置する河川敷「中津」の海抜は現在約140mです。

海抜160mから180m付近に古代の湖岸を連想させる地名が点在しています。

これは「室津」(160m)、「船頭」(175m)、「和田」(170m)、「筏津」(160m)、「高浜」(180m)で、「滝津」は(130m)です。

​これらの地名は、現在の河川から離れた高台の地滑りの平坦部に位置しており、古代に粟栽培が盛んだった大粟山に続く中心地であったと考えられます。これらの地名の配置と地形から、神領地区にかつて存在したとされる湖を裏付ける証拠となっています。

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​「滝津」という地名は、上角と小野を結ぶ狭い山峡に位置し、その起源は興味深い歴史的背景を持っています。

『大粟比売尊考証』によると、元々滝津の地名は古い方言で“獄”を表現しており「たき」として文字化されていますが、実際には“瀧”ではなく“獄”(深い谷間)を意味しているとされます。しかし、古代に「神領湖」と呼ばれる堰が存在していた場合、実際には水の流れる滝があった可能性も考えられます。この堰の存在は、上下に船着場があったことを示唆しているのかもしれません。これらの情報から滝津とゆう地名は神領湖が形成された時代の遺産である可能性が高いと考えられます。このように、滝津の地名は地理的特徴だけでなく、時代の変遷や地域住民の生活様式を反映する貴重な歴史的資産であり、遠い過去からの物語を私たちに語りかけています。

​(ChatGPT支援を受けました)

大粟山

2.​大粟山と古代粟栽培の歴史と探究

​大粟山はかつて神領湖に浮かぶ島のような形で、濃密な樫や楠の森に覆われていたと想像されます。左右内(鍋岩)や神領大埜地で縄文後期の石棒や磨製石器が発見されており、そこに渡来人がやって来たと考えられます。

​これらの渡来人は、黒潮に乗り四国の南海岸に辿り着いき原始の森を探り、大粟の地にインド原産の粟種をはじめとする多様な作物と焼畑技術を持ち込みました。彼らは稲作文明の前の民で粟の食文化を広め最終的に神領湖周辺、現在の神山町神領大粟山に定住しました。大粟山の環境は肥大な土壌と水に恵まれており、粟の栽培に適していたと思われます。

栽培が軌道に乗るまでには大変な時間がかかったものの、湖の南岸に広がる肥大な土地で粟栽培は順調に進み、後には白桃、和田、筏津、高浜、谷地区などに広がり農業が盛んになりました。このようにして、大粟山に到達した渡来人は粟栽培を開始し、大粟谷の開発に取り組みました。後に粟国祖神として大宣都比売は祀られました。

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古事記の五穀の起源は「又 食物を大気津比売神に乞ひき。繭に大気津比売、鼻口及尻より、酒類の味物を取り出して、種種作り具へて捧進ると為ひて、乃ち其の大宣都比売神を殺しき。五穀が生まれる故、殺さえし神の身に生まれる物は、頭に蚕生り、二つの目に稲種生えい、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰に麦生り、尻に大豆生りき。故是に神産巣日御祖命、これを取らしめて、種と成しき。」と語られています。

​日本の稲作の始まりが紀元前3~5世紀ごろと考えられ、速須佐之男命より、遥かに昔の話が挿入されているようです。

大粟神社 神紋 粟

​幼い頃から地元の祭りで活動していたが、大粟神社の御祭神が大宣都比売であることを知らなかった体験は、神領地区の深い歴史と神話に触れるきっかけとなりました。「氏神さんは伊勢からお馬に乗ってやって来た」とゆう話は、地元の伝承の一部です。

​「神領村誌」には、大宣都比売(または大粟比売命)が伊勢国から馬に乗り、八万の伴神を引率してこの地に移り、粟を蒔くことで一国経営の始まりを告げたと記されています。また『大粟比売尊考証』では、大粟姫尊がこの地に降臨し、地元の木挽職人との交流や神馬が石となった伝説や山で食事を大宣津比売に提供して飯炊き人となり、この比売が氏神になられたと語られています。これらの伝承は、神領地区の文化と歴史の深い層を示しています。

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さらに『神領村誌』によると、聖武天皇の命により729年に神宮寺が建立され、嵯峨天皇(809-823年)の時代には伊勢国丹生大明神がこの地に馬で訪れたとされています。桓武天皇の御信仰により、784年には神領村と名付けられました。この記録は、大粟山と大宣都比売の神話的な起源を示しており、地域の精神的な風景を形成しています。一方で大閑著「道は阿波より始まる」では、「日本書紀の中で伊勢皇大神宮など写本されている神社は以西(いせい)乃皇大神宮(阿波国天石門別八倉比売宮)の事思ってください。」言ってイセは徳島にあったとします。

国生み神話で淡路に引き続き生まれた四国で、「此の島は、身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。故、伊予国は愛比売と謂いひ、讃岐国は飯依別比古と謂ひ、粟国は大宣都比売と謂ひ、土佐国は建依別と謂ふ。」で、まずは国生みで、粟国の祖神として登場する。当然、奈良時代以前から大宣津比売は粟国に祀られていました。今、大粟神社に祀られている氏神様は、粟国の祖神大宣津比売か、または伊勢から来た丹生大明神かどちらだろうか。さらに大宣津比売の子孫を訪ねてみましょう。

若室神

3.若室神(葦稲葉神)

若室神は大宣津比売の子の世代とされ、大粟神社の社地に若宮があり祭神葦稲葉神という。若宮は若室を誤り伝えているようだ。「社より三四丁の処に室須という地あり。氏神なるよしありける地名なり。」この若室神社の祭神は葦稲葉神であり、この地域に深い歴史的な意味を持っています。

また、「室須」とゆう地名は、若室が氏神、すなわちその地域の守護神であることを意味しています。しかし、この地名の由来は上角の住人には不明でしたが、慶長検地帳や神領分間絵図で「ムロヅ」と記載あり「室津」と考えられ、かつて湖だった時の船着場であったことが窺えます。

​この話は、地名の由来や歴史的な背景に光を当てるものであり、地域の歴史を理解する上で重要な手掛かりとなります。

粟国の平野部の徳島市の庄遺跡で、日本でも早期の稲作の遺跡や証拠が見つかっています。その技術は呉(揚子江の下流)から北九州を経て徳島の平野部に早期に伝わったと思われます。そして若室神はこの技術に触発され、大粟山に稲作を導入したと考えられます。

それは大粟山と神領湖の南岸が御荷鉾帯であり、粟栽培の圃場で水の噴き出す現象を経験していたことによるものと想像されます。特に南上角白桃地区や大粟山の南部更に谷名でその現象が見られたと思われます。

若室神(葦稲葉神)によって、棚田での稲作が始まり、粟作の圃場や傾斜地で水のにじみ出るところを棚田にしたのではと想像します。広い水田は出来ませんでしたが、石垣を作らなくとも、更には水路も作らなくとも水田が出来、神山の傾斜地において、棚田での稲作が始まったのではないでしょうか。

​神領字南上角は、佐那河内村から続く幅広い御荷鉾帯の西端に位置する地域です。このエリアの最大の特徴は、河川から山の尾根にかけて広がる地滑り地形であり、三段に分かれた独特の構造を持っています。

地滑り三段構造

一段目:この地域は、「塩水」と「白桃」の在所で、大きな地滑り平坦地を形成しており、家屋敷や畑地が広がっています。

二段目:「峯」の在所にある緩やかな傾斜地では、畑よりも採草地だった場所です。

​三段目:狭い範囲ですが、かつては山田があったばしょです。現在は桜の林です。

開田時に出た石を使った石崖の棚田跡

地滑り平坦地の下部にある急傾斜地には、棚田が広がっています。一段目の下部には、石崖のない土だけの畦道だけの特徴的な棚田があります。他の部分では、開田時に出た石を使って築かれた狭い棚田が見られます。これらの棚田は、全ての急傾斜地を占めているわけではなく、残りの部分は木材や燃料としての林地となり、地域にとって不可欠な存在です。

​頂上付近は、かつて焼畑が行われていた可能性があり、半世紀前には茅の草刈り場でした。今では入会地が分割され杉林としてその姿を変えています。

御墓

4.御墓と粟国國造

『大粟姫考証』で、多久理彦神の墓とされる上山村下分栗宇野名の塚について、昔から尊敬され、「くりふみはか」と呼ばれていて実際には神陵であるとされています(写真)。

多久理彦の名を略した「くりふの墓」や「牛塚」としても知られ、毎年祭礼が行われていることが記録されています。この記述は古代神話と地域伝承の結びつきを示す貴重な資料です。多久理彦の御墓は、阿波女社の宮主拠点が最初に「下分」に設けられたことを示しています。

​御荷鉾帯での営農と棚田の開発が「下分稲原」から「上分江田」へと発展した証拠として、左右山と寺久保の銅剣や大久保の銅鐸が見つかっています。

​この地域は西に帆の銅剣文化圏と東日本銅鐸文化圏の接点を象徴し、落葉樹林帯の縄文文化圏の西端、南の棚田稲作文化圏と来たの焼畑粟麦文化圏の交差点としての重要性があります。この文化的な交差点は、江戸時代や明治時代にも影響を及ぼし続けていました。

大宣津比売から九代目にあたる佐人が応神天皇の御世(西暦5世紀)に粟国國造として任命されました。『神領村誌』によると、大粟神社の祭官は、阿波国造の下分上山村にある國造本館によって世襲されてきました。この國造家は宮主と呼ばれ、長年にわたり神職を務めてきたとされます。神領村には國造別館が存在し、阿波風土記(江戸時代の記録)に記されている国造館の跡地が今も下分上山村栗生野に残っています。

​国造として、季節を把握することはとても重要なことだと仮定し、宇佐八幡宮が祀られている下分の「寺久保」から、日の出の定点観測を検証しました。すると面白いことに、春分のひに、真東に位置する「元山」の立岩神社から日の出が観測されました。

笑子岩

​5.高根山の笑子岩伝説

「神領村高根山に笑子岩(エビスの別名)と言う数十メートルの大岩を人面の形にきざんだ神像がある。目鼻口眉其あざやかで上作である事 見る内に語も問ふと思うばかりにて 春のうららかなる日は にっこりと笑ふ如くに見ゆ。天上自然のわざか思へども、必神作 又は上代の作なるべし。実に遠山にて知る人少なきは惜しむべきなり。都近き処にあるならば石の宝殿にもおとらず、其名高かるべし。是等の作者として国造岩肩彦と伝えている。」と『大粟姫考証』が書き残しています。

(写真:笑子岩の鼻筋を横から)

この神像笑子岩は、大宣津比売の夫である阿遅鉏高日子根神を彫刻したもと考えられています。出雲の国の楯縫群の神名山や播摩国の石殿などの大神の降臨した遺跡と同じく重要な歴史的価値を持っているとされています。

(写真:播磨国生石神社石殿と、シーボルトが描いた模式図)

​この話は、神領地区の古代の信仰と神話に深く根差したものであり、地域の文化や歴史を理解するうえで非常に重要です。エビス岩や人面岩は、その地域の信仰と文化の象徴であり、過去から現在まで続く物語を語り続けています。

​(写真:笑子岩の正面)

五代目粟国國造の岩肩彦が彫刻したと伝わる巨大人面岩は、「栗生野」にある粟国國造本館の真正面に相対しています。栗国の発展により神山を去ることとなった國造が笑子岩に託した、後世の神山への眼差しとは。

​(写真:粟国國造本館の正面)

古事記

​6・古事記の大宣都比売と農業神々の物語

『古事記』に記される大宣都比売は、農業と食物に深く関連する神様であり、四回も登場します。最初に淡路に続き四国が生まれ、粟国の祖伸として現れます。神生みの物語の中では、鳥乃石楠船神、大宣都比売神、火乃夜芸速男とゆう三神が生まれ、これらは農耕・農業・食物を象徴していると考えられます。

五穀誕生の有名な話は、大宣都比売が速須佐之男命によって殺され、その身から五穀が生まれた物語です。この神話では、彼女の身から蚕、稲、栗、小豆、麦、大豆が生まれ、農耕の始まりを象徴していると考えられます。さらに羽山戸神が大宣都比売神を娶して、若山咋神、若年神、妹若沙那売神、弥豆麻岐神、夏高津日神、秋毘売神、久々年神、久々紀若室葛根神など八神を生み、それぞれが農耕に関わるさまざまな側面を代表しています。

神々は季節の変化、作物の成長、水の供給、収穫など、農業の各段階を守護し、久々紀若室葛根神は神嘗祭を象徴する収穫祭の神です。

​古代日本の農耕文化の形成に大きく寄与し、日本古代の農耕信仰と文化の理解に不可欠な要素であり、大宣都比売と彼女の子神々は、日本の農業神話の中核を成す存在として語り継がれています。

神山風土記

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